自信満々の


以前福田和也さんの「作家の値打ち」をペラペラめくっていた時に、絶賛される石原慎太郎が目にとまっていました。


作家としての石原慎太郎は特に興味があるわけでもなくて、ベストセラーだった「国家なる幻影」を読んでいるくらいでした。


”国民的俳優と作家・政治家の兄弟という特権的な立場から、二人の兄弟というきわめて内密的な領域へと垂直に側鉛をおろす手腕は見事である”という福田氏の言葉で飾られる、やはりベストセラー「弟」が、たまたま本屋の文庫本の棚に並んでいたものですから買い求めました。


読み始め本も半ば、「太陽の季節」のデビュー、「狂った果実」あたりまで我慢して読んでみて、いよいよページをめくるのが嫌になってきました。


これが日本近代文学に明記されるべき名作と言える私小説・・・・・・なのか。。


文体も書き様も「国家なる幻影」と同じ。身内と仲間、特に自分自身を持ち上げ、反する立場の人間を否定的に書き連ねるやり方は、「世の中好きな人と嫌いな人だけ」「おれの生き方が正しい」しかみえなくて、成功の道を歩んできた自信満々の有様が、時にただの了見の狭いヤツに思えます。


どの本かも忘れてしまったのですが、昔、沢木耕太郎の新しいリーダーを取り上げたルポルタージュで若き石原慎太郎の忘れられないエピソードがありました。


列車の通路で車内販売の男性が石原の行く手に邪魔になっていたとき、「おまえ、ウェーターだろ。どけよ」と避けさせたというのが象徴的に書かれていました。


文章と言うのは怖いもので、この一言がずっと石原慎太郎のイメージを決定づけていたのですが、読むのを止めてしまったこの本でも思いは変わりませんでした。


とはいえ、この気持ちはもしかすると、金と権力と名声を若いうちから手に入れた者への潜在的なヤッカミなのかもしれません。


幼少期から青年期の回想記と言う意味では、評論家加藤周一氏の「羊の歌」のように、その生き方自体を憧れて止まないと思わせるような、私にとっての名著とは対極にある一冊でありました。


福田氏の石原絶賛というのにはなにか裏があるのだろうか?