求道者


「足利詣で」という言葉があることは知っていました、一応蕎麦好きの端くれですから。


足利 一茶庵 片倉康雄さんが広めた蕎麦打ちから育っていった方々が、今の手打ち蕎麦を広めていったのだそうです。そんなことを取り上げたTV番組を見ました。


そこで紹介されていた、「翁」の高橋邦弘さんは片倉さんのもとで修行し、今頂点を極めているといわれる蕎麦職人です。東京 東長崎で注目され、山梨 小淵沢に移り、蕎麦のための理想的な環境で仕事をされていたのですが、噂通り、今度はより高みを求めたのか、広島の山の中で蕎麦打ちを始めたのだそうです。


「もともと、お客様に来ていただくことを想定して店を造ったわけじゃないから」とおっしゃって、週末だけお客をとり、後は弟子を育てることをなさっているのだとか。


もう一人の片倉さんのお弟子さんも、「どこまで自分が納得できる蕎麦を打つか」に執心なさっているようで、お二人とも職人と言うよりは求道者と呼ばせていただきたい姿勢をお持ちです。


高橋さんの「翁」へは一度だけ伺ったことがあります。もちろん、蕎麦だけでなく汁、薬味、器にいたるまで妥協はないのですが、メディアから見える高橋さんはひたすら「蕎麦を打つ」ことに執着しているように見えます。もう一方の兄弟弟子も同じです。


蕎麦というのはそこまで駆り立てるものがあるのでしょうか。極めるものであるというのは、彼ら名人達の仕事を見ればその素晴らしい熟練度故にわかるような気はするのですが、それが「道」という言葉語られはじめそうな雰囲気になると、とたんに私は居心地が悪くなってしまいます。


私のように何品もの料理を雑多に扱うような半端な職人には、料理は一つ一つが丁寧な積み重ねではあっても、あくまでお客様に喜んでいただいてナンボのもので、自分自身が納得するだけのためにあるのではありません。私にとっては料理は「道」でも「芸術」でもないのです。


蕎麦職人の高い技術と仕事への緊張感は、皿をみればわかります。が、「求道者」の蕎麦を芸術品をめでるようにありがたがって奉るような客にはなりたくありません。


蕎麦は単なる食べ物。楽しい雰囲気で美味しく食べて「あーーー、美味かった」以上は何もいらないような気がするのです。


ラーメンのようにメディアが関わる事で「こだわり」が妙な方向に昇華して、「語るための食べ物」になってしまわないことを望んでいます。


美味しいんだもん、蕎麦。


という私は蕎麦愛好家の風上にもおけないやつなんでしょうね、きっと。