一音を歌う


音楽の演奏を学び楽しむようになりますと、技術的な習熟の先に「音に感情をこめる」とか「音を歌う」というハードルがあります。


名演といわれる音楽が心を打つのは、テクニックの素晴らしさ以上に演奏者の「歌う」心を感じ取ることができるためです。


ジャズの世界でも、例えばチャーリー・ヘイデンというベーシストなどはベースをギターのように弾きまわすテクニックはまるでないのに、音一つ一つの重さというのか説得力の凄さは群を抜いていて、バラードでの一つの音が「ドッカーン」と聞こえるのはないかと思うほどの心に染みる音を出せる名手です。


このチャーリー・ヘイデンさんは、私が若い頃の師匠の師匠であったものですから、「俺は孫弟子である」と思い込み・・・・というより自分勝手に信じて、「チャーリーみたいに弾きたい」と思いを馳せたものでした。実は「チャーリーみたいな音」というのは、いくら練習しても指がこんがらがってしまってテクニックの「テ」の字も身につかない私の逃げ口上でもあったわけで、まったくもって不届きな奴だったわけであります。


それでも「一音に思いを込める」という意味は、おぼろげながらにも理解はできるような気がしてきまして、音楽への入れ込み方は一つはじけたと勘違いしていたのです。


で、
昨日改めて聞いていた小沢征爾〜ボストン・フィルの「マーラー9番」第四楽章にはそういう「一つの音への思い」とか「一音を歌う」とか各所にちりばめられていました。


小沢とオーケストラメンバーの思いが、第一バイオリンのロングトーンのような延々とした一音にも感じられて、背筋がゾクゾクするのです。


というわけで、昔々の師匠とチャーリーのおかげで、未だに尻の青い若造のように音楽ではセンチメンタルな気分に浸れるのです。