思索と情報
先日友人と久しぶりに会って話をしました。
「この頃、一枚のアルバムを聞き込むって事がなくなったよね」
「TVの音楽番組で、めったに見られないアーティストの演奏を一音も聞き逃すまいって事もなくなった」
「一冊の本をじっくり読んだり、全集で個人を掘り下げるってことも少なくなったよね」
「形而上学的な話を夜を徹してする事もなくなった」
なぜなんでしょう。
インターネットが象徴するように情報過多の時代に入って、たくさんの情報でお腹がいっぱいになることで満足してしまっているのでしょうか。
情報を寄せ集める事だけで個を形成してしまって、そこから己を作り上げる必要がなくなってしまったのかもしれません。
確かに私達が10代から20代にかけては、知っている事よりも、思索することのほうが大事でした。少ない情報量でも丹念に噛み砕き、一口一口を糧にするような試みをしていたような気がします。
学校を卒業してからも、読書会と称して加藤周一、山口昌男、竹内好、唐木順三、森有正・・・・なんてお互いに読み合う事をしていました。
好きなジャズのレコードは、メンバーのフレーズを口に出して唄えるほど繰り返し聞きました。名演といわれるものは、仲間5〜6人が集まると全員スキャットで口ずさめたものです。
「思索の日々」・・・・なんて憧れた言葉でしょう。
今だったら「思索?ばっかみたい」って言われてしまうかもしれません。
いつの頃からか、アジテーターと情報処理上手はいても、思想家といわれる人物が世の中から見当たらなくなってしまいました。
昔を懐かしむという意味でなく、思索の日々に思いをはせるべきかもしれません。
「馬○の考え休むに似たり」なんて鋭い指摘は勘弁してくださいね。