音を楽しむ


子供の頃から運動神経が鈍く、草野球でも9番ライトをもらうミソッカスが象徴するように、スポーツ全般何をやらせてもだめでした。


ですから、大人になってスポーツクラブなどに通うようになって初めてスポーツとは楽しむもんである、身体を動かすのは気持ちいい、下手でも楽しめると言うのがわかりました。


なにしろ私が育った時代はスポ根全盛時代、へたくそな奴はダメな奴、だったのです。


劣等感を抱いてもおかしくもなんともありません。


音楽も同様でありました。


幸い音楽は下手なりに誉めてくださる方がいて、「豚もおだてりゃ木にのぼる」同様長続きしました。


しかし、やはり時代は根性の時代。


音楽も楽しむことより辛く長い練習を乗り越えることで上達する、上達したのものが勝者であるという時代でした。


練習のために音楽をしているのか、楽しむために音楽をしているのか定かでないことを不思議とも思いませんでした。


音楽のそういう考えを一掃させてくれたのがアメリカでの体験でした。


学生当時、アマチュアビックバンドとしてはそこそこ名前だけは通ったバンドに所属できたのですが、無謀にも学生最後の年にアメリカ西海岸演奏旅行を企てました。


いくら名前だけは通っているとはいっても本場へ日本人学生バンドが出かけて演奏するのです。


いわば、アメリカ人の歌舞伎真似事集団が日本公演をするみたいなもんかもしれません。


それでもアメリカ人というのは大らかというのか、こだわりがないというのか、いい物はいい、楽しいものは楽しい、そこに妙なこだわりなどない国民でありました。


日本で演奏すると、「どれほどの実力かみてやろう」みたいに腕組みをして睨んでいるような観客が多かったのに、アメリカの聴衆はまず楽しんでやろうが先行します。


楽しませてくれた演奏、いい演奏には即スタンディングオベーションです。


日本では皆無だったスタンディング・オベーッションの連続に「何かの間違いなんじゃないの?」「お世辞もここまでいくとねぇ」と狐につままれたような気分であったのですが、聞くと、「誰でもこうではない。お前達の演奏が楽しかったからだ」と・・・・


こういう聴衆を前に自分達が演奏を楽しまないわけにはいきません。


音楽とは楽しむものだ、自分達が楽しんでいるのを見て聴衆はさらに楽しんでくださる、アマチュア・ミュージックの醍醐味はそれ尽きる。


楽器を本格的に触り始めて十年してやっと理解できた真実でありました。


たった二週間の経験が音楽観をがらりと変えてくれました。


今再び楽器を持ったとしても、下手は下手なりに音楽を自分自身がまず楽しむことについては人よりも自信があります。