MAKING


あらゆる分野でMAKINGの様子を伝えているのを目にします。


異分野で創造的な仕事をなさっている方の創作過程は過程自体でさえ感動的であることがあります。


LDで持っているピアニスト グレン・グールドの映像にはグールドの練習風景のごく一部が映し出されています。


一般的に練習というと上手く弾けないところを練習する、もしくは曲想を思いあぐねながらあれこれ試す、というのが当たり前だと思っていたのですが、ホンの数分間のグールドの練習では、明らかに彼の頭の中に完璧に出来あがった音楽が流れていて、それにいかに近づけるかという練習でありました。


レベルがあまりにも違います。


黒澤明、スピスバーグ、コッポラ、ベッソン宮崎駿・・・・


映画でも人々を感動させる監督の映像にかける緻密さと執念深さ、飽くなき探求心は常人をはるかに越えている・・・・というのもMAKING VIDEOで知ることが出来ます。


一方、芸能人のmakingそのものを番組にしたような薄っぺらな試みや、安っぽいグルメ番組でこの料理はこんな工夫やこだわりを持って仕事をしていますを強調するようなmakingは、プロなんだからそれくらい当たり前ジャン、という厳しい見方をしてしまいます。


こうなると、MAKINGの様子はかえって安っぽさに通じて見えます。


MAKINGといえるかどうかわかりませんが、たとえば私ン処で扱うようなお酒は、杜氏さんの努力と蔵元の熱意を知るがゆえによりお客様にその事を伝えようと、お酒そのものを味わっていただく以上にまつわるお話も積極的にしたいと思うのです。


他方で料理はというと、こういう素材をこんな風に調理してという過程を多弁に語るのは自分で作っている分、どこか気が退ける気分がします。


出来れば、味そのものをご理解いただければいいではないか・・・・と思いつつ、語らなければわからない事も多いだけでなく、説明して欲しいとおっしゃっていただくお客様もたくさんいらっしゃるのも事実です。


料理もお酒も味わっていただくのはある意味感性の世界です。好き嫌いだけでなく美味しさを理解できるかどうかは、その方の経験値と感受性の豊かさによります。


たとえば、前菜に三時間かけて蒸しあげた蒸し鮑に蒸した海胆を裏漉しして、卵の黄身で伸ばしたものを塗りながら焼き上げた鮑の海胆焼きという一品があります。


蒸し鮑の滋味とか、蒸し海胆の味の柔らかさをしんみり美味しいと思っていただけるかどうかは、その手のものを何度も召し上がっていて美味しさをご存知か、初めて食べても「美味しい」と思える感性をお持ちか、はたまた、「高価な鮑です」「三時間もかけて蒸してやっと滋味と言うのが現れます」「海胆も高価な生うにを塩蒸しして裏漉します」という耳から入る情報でもってさらに美味しい物なのだと納得するか・・・・お客様によってすべて異なります。この手の説明を疎ましく思われる方もいらっしゃいます。


MAKINGを語ってみるべきなのか、語る必要など無いものなのか。


お客様の意識があまりにお酒ばかりにシフトしまう時、お酒を集める努力の十倍の力を注いでいる料理をいとおしいく思ってしまいます。


実際には、綺羅星のようなお酒を上回る料理の力があれば語る必要などないと言えばないのですが。。。


MAKINGを伝えるのは難しい。