ほぼ毎日


超人気サイト「ほぼ日刊イトイ新聞」糸井重里さんが2〜3日前にこんな事を書いていました。

「毎日」ということのオソロシサを、
昨日も、作家の高橋源一郎さんと話しました。
彼も、新聞の毎日連載と月刊の連載を二本やってた人。
「出ない」というところをしぼり出す。
それを毎日繰り返していると、出るものしか出なくなる。
そこで出る「加工するヒマもなかったもの」こそが、
「たいしたことない自分」の正体だと思うんですね。
結局、その「たいしたことない正体」のほうを、
育てていくことしか方法はないんじゃないか。
どんな手練手管も、毎日出していると尽きてくるでしょう。

「加工するヒマもなかったもの」こそが、
「たいしたことない自分」の正体


という言葉には重みがあります。


まさにたいしたことない自分こそ「板前日記」正体です。(日刊イトイ新聞とは次元、レベルが遥かに違いますが)


言葉の天才、書く事の達人がこんな風におっしゃてるのです。


私など「しぼり出す」「手練手管」「尽きてくる」などという悲壮な思いは全くなくて、「こんなに書き散らした物を公にしていいのだろうか?」という罪悪感くらい(というより羞恥心)があるだけで、糸井さんのように書いたものに責任をしっかり負う方には重荷となるのだと思います。


それでも、これほどの方でも「毎日」が大変であるなら、「私なんぞもっともっと肩の力を抜いて、だらだら一日おき、一週間おきでも罰は当たらんな」と怠け心が芽生えてきます。


「板前日記」ももうじき3年目に突入、「だらだら日記」に変えて見ようか・・・・・。