言葉の表現と味の表現
しばらく前、ある町のある料理店に伺いました。
雑誌で拝見し、比較的大きく取り上げられたご主人のお話も、料理の写真も食指の動く物でした。
初めの店に伺うときには、そういう情報はとても重要です。
が、
実際に予約をして出かけ、メニューを見て若干の不安が・・・・、料理を食べると・・・・・
雑誌で見られたような志の高さが料理に感じられない。
例えば、この料理にはこういう調味料が入ってこうあるべきであるという意志の強さが、雑誌には述べてあるのに皿自体には見えない。
決して料理がまずいというわけではないし、お客様も次々とは入り、順番を待つ方もいるほどです。
料理店は流行っていることが優先順位の一番です。その意味でこの料理店は全く正しい。
このお店の事をどうこう言うのがここの目的ではありません。
こういう事があると、言葉で表現された事と、一皿に表現された事が一致する困難さをいたいほど思い知らされます。
自分を振りかえるとぞっとします。
冷や汗が出ます。
本来、料理店は一皿の満足の積み重ねだけ勝負すればいいはずです。
私の場合、ネットというメディアを使って、言葉でああでもない、こうでもないと言い散らかし、料理はこうあるべきであると発信しつづけているのに、一皿にそれが凝縮されているか?
簡単に言えば、ご大層に言ってもホントに美味いのか?
口をつぐんでネットを閉め、料理場に閉じこもりたくなります。
件のお店の場合、雑誌のライターとカメラマンの能力が高かったと言うべきかもしれません。
何しろ料理人もその気にさせるほどの文章と映像なのですから。
私の場合、自分で言って自分で料理しているのですから責任は重大です。
言葉はますます少なくなりそうです。
鍋と包丁の前だけに集中すべきなのかもしれません。