マイルス・デイヴィスⅡ

マイルス・デイヴィス「リラックシン」が、私のジャズ事始めであったことを書きました。


「リラックシン」を含む、「クッキン」「スティーミン」「ワーキン」のプレステッジ(レコードレーベル)4部作は、この時期のマイルス・デイヴィス クインテットの金字塔であります。


1950年代初頭のマイルスは麻薬に身体を蝕まれ、経済的にも演奏的にもどん底ででした。それを救ったのがプレステッジ。


このレーベルでは次々と名作を発表し、スターダムにのし上がっていきました。


そして、マイルスには大手のコロンビアから、ギル・エバンスとのコラボレーションを始めおいしい話テンコモリの契約話が持ち上がりました。


マイルスは早くコロンビアに移りたい、が、プレステッジとは後アルバム4枚分の契約が残っていました。


そこで、彼は4枚分の録音を一気にやってしまいました。


1956年5月11日、10月26日(一部55年11月16日 56年5月26日)    
25曲をすべてワンテイク、取り直し無しという荒技です。
前述の「リラックシン」の最後の部分で、ブースの中のプロデューサーが「もう一回」と言うと、マイルスが「Why?」、で、コルトレーンが「ビールの栓抜きはないか?」そんなやり取りまで入っています。


ジャズの場合、即興性が大事であります。テイク2、テイク3(二回目三回目の録音)の方が素晴らしいかというと、概して気合い一発の方が遙かに素晴らしいというのは良くあることです。


即興性、その日の出来がよく示されているのが、コルトレーンの演奏です。
5月11日のコルトレーンと、10月26日のコルトレーンでは別人のように演奏の出来が違います。


半年の間に急激にうまくなったという説まであって、その時期身近にいた人でなければ分かりませんが、もう少し長いスパンで見れば、1955年から1960年位にかけてのコルトレーンの進歩ぶりというのは神懸かり的なものです。1950年代後半の「マイルストーン」や「カインド オブ ブルー」あたりでは、普通のサックス吹きから、あこがれの目で見られるスターミュージシャンに間違いなく変身しています。(60年代からは神に近くなるのですが)


マイルスに呼ばれて、グループのメンバーになったのも、当初の予定だったソニー・ロリンズの都合がつかなくて臨時であったくらいの腕であったのが、化けてしまったのです。私の知る限りでは、プロになってからこんなにうまくなったミュージシャンはいません。いずれにしても、あんまりうまくない(調子のよくないかもしれない)コルトレーンと、うまいコルトレーンも4部作の中で聞くことができます。


ハタから見れば、やっつけのような録音でも、歴史に残り、半世紀後でもナツメロでなく充分聞き応えがあるというはジャズの奥行きです。


この4枚のアルバムから
IT NEVER ENTERED MY MIND
IN YOUR OWN SWEET WAY
SOMETHING I DREAM LAST NIGHT
WHEN I FALL IN LOVE
YOU'ER MY EVERYTHIG
IT COULD HAPPEN TO YOU
MY FUNNY VALENTINE
WHEN LIGHTS ARE LOW
の8曲を編集してテープに録音、車に忍び込ませれば、意中の女性の心をものにする手助けをしてくれるはずです。(経験者は・・・・)