衰えていく日本語
高村薫「半眼訥訥」のなかの一節
この国に日々溢れる造語、略語のたぐいは、一種の時代感覚として、万人にもいともたやすく受け入れられていくが、こんなことが日常的に起こっている言語は、世界の主要言語の中でも、日本語だけだろう。
(中略)
たとえば、若者が「ださい」という一語で片づけてしまう諸処の事象を、普通の日本語で表現しようとしたら、どれほどの言葉を費やさなければならないか。そもそも世の物事が一語で表現出来ようなものなら、人間は猿以下の進化に留まっていただろうに。(中略)
若者たちが「むかつく」という一言で自分を表現するとき、どれだけの思考と言葉を省略していることか。
とはいえ、言葉を尽くすことを何となく疎んじてきたのは、この、私たち自身かも知れない。そうして言葉をいとも安易に変容させ、省略してきたことによって、毎日の暮らしの中で、自らのありようを把握する回路を失い、立ちすくんでいるのである。かつて日本人の暮らしを円滑に支えてきた、いわゆる阿吽の呼吸も、相互にそれを翻訳する思考の回路があってこそだったが、思考を紡ぐ言葉そのものをやせ細らせては、それも今や怪しい。
4.22の日記で紹介した光野 桃「実りを待つ季節」の文章に心が落ち着くのは、人情の織りなす機微を解きほぐすように表現しているからで、「むかつく」でひと括りにするような日本語とは別世界であるからです。
調理場の若い者も「その鯛、バッバッと鱗拭いて、ガーーーとおろして・・・・」などと言うことがあります。
もしかすると彼らの世の中になる頃には漱石「明暗」なんてう「カッタルイ」だけで、古典への道は閉ざされてしまうかもしれません。
が、私はそういう世代の日本語を変だと思い続けます。
日本料理のもてなす心や気遣うさりげなさまで共に廃れれば、私よりどころとする道も閉ざされてしまいます。