思い出にはかなわない


日本酒を召し上がっていただいているお客様がよく「親方、○○ってお酒知ってる? 美味しいんだよぉ。以前に蔵元を訪ねてタンクから飲ませてもらったやつはたまらなかったねぇ」などとおっしゃることがあります。


あるいは逆に
「昔飲んだ○○(極上の日本酒)はあんなに美味しかったのに、久しぶりに飲んでみると味が落ちたなぁ」


もしくはお酒だけでなく
「子供の頃に食べた○○(お菓子)、今のヤツは全然美味しくなくなってる。味が変わっちゃったね」


これらはすべて思い出を元に語られています。


思い出、特に食に関するよき思い出は限りなく美化されます。5年10年前の味わいの記憶を正確とどめることはほぼ100%不可能といっていいでしょう。それが美味しければ美味しいほど美しい思い出として記憶されるのです。



蔵で飲んだお酒は、杜氏自らが汲んでくれたりすればその感激が味わいを倍にしてくれます。


それまで飲んだことがないような綺麗な大吟醸を初めて飲んだときの印象は、未知との遭遇という意味で舌にも脳にも鮮烈に記憶され、美しさだけが昇華されます。


子供の時の味の記憶はさらに始末が悪いのが普通です。バタークリームしか食べたことがない子供にとって、生クリームの初めての経験は衝撃的なはずで(私自身がそうです)それ以降何度生クリームと食べてもあのときの味の思い出にはかなわないのです。幼ければ幼いほどそうです。



店でどんないいお酒や食材を召し上がっていただいても、この美しい記憶をお客様に持ち出されると、そこではどんなにあがいても太刀打ちはできません。実際、(日本酒であれば)その思い出の銘柄をおうかがいすると「絶対今召し上がっていただいているそのお酒の方が美味しい」と心の中で確信しても、「さようですかぁ、○○はいいお酒ですからねぇ」と申し上げるしかありません。


それはそれでいいのです。美しい思い出をたくさんもっていることは人生を豊かにしてくれます。思い出を楽しく語ってくださることは今のその場の雰囲気もいいものにしれくれるはずです。


ただ、食のプロフェッショナルとしての私は、いつも味わいを思い出にしてしまわないように冷静な目で食べ、飲むことを心がけています。たとえその食事の時間がいかに楽しいものであっても、味わいの記憶は記憶として別に心にとどめなくてはならないのです。



食の美しい思い出を多く語る方々は、もしかすると数年後に、「弁いちで食べ飲んだあれ」を美しい思い出として記憶してくださる可能性もあるといえます。できうれば、そんな思い出を作って差し上げられる店になりたいものです。