立川談春さんの「赤めだか」は初出版とは思えないほど秀逸なエッセイです。落語家の前座時代の微妙な心の揺れ動きをここまで見事に明らかにした本を私は知りません。


前座といういわば奴隷のような修行時代から二つ目に昇格するまでの師匠談志との葛藤と、同門の前座たちとの結束と嫉妬、同じ修行という立場で考えるといくつもの事柄が私達板前の修業時代と思いが重なります。


一番激しくうなずいてしまうのが、下に抜かれていくときの焦り。同列にいる仲間の中で自分が劣っているのではないかという劣等意識と、相手に対する嫉妬。今から考えると長い板前人生の中のほんの一瞬の時間、同期が自分よりちょっと先に出ただけのような事態でも、「自分はこの商売には向いていないのではないか?」「もう止めたほうがいいのではないか?」と悩みに悩むのです。



私も人一倍愚鈍で不器用ですから、同時期に入門した中で出世は遅いほうでした。


板前の世界では始めに追廻しとして野菜の下処理や魚の水洗い、掃除などなど下働きの時代が続きます。そこから焼き方や揚げ方の補佐、焼き方、煮方の補佐、向板と次第にポジションが上がっていくのです。私が修行した調理場では20人ほどの板前がいましたので、春に4-5人の追廻が入店し、一年に一回くらいの割合で仕事が移動し出世していきました。中でも私は一番遅かったかも。実際にはいわゆる下働きの仕事は1-2年で三年目くらいからは板前らしき仕事が任されていったのですが、たった三年の間のポジションの優劣に、落ち込み、嫉妬し、打ちのめされるのです。30年も仕事をしていると、修行時代なんぞ一瞬のうちのはずなのに、当時はもちろんそんなことは考えられずに誰がどこへ配置されるかに一喜一憂していたのです。


もともと競争社会に全く向かない万年負け犬体質の私ですから、会社勤めのようにずっと競争を続けるような厳しい世界では到底やっていけません。修行時代を経て、調理場内での競争がなくなって初めて落ち着いて仕事に向き合うことができるようになったときどれほど嬉しかったか。数値や格付けで一番二番が出にくい料理の世界はやっぱり私に向いています。(明日はミュシュラン話になるかも・・・ね)