器使い


器に目が行き届き、素養もあるという料理人は実はそれほど多くはありません。私自身素養という点ではかなりお寒いひとりです。


魯山人が料理屋の器使いに革新的であったのは、常に膨大な骨董にかこまれ審美眼を養っていたからです。審美眼を磨くための最上の方法は古典的名作を手元におくことであるのは間違いありません。昭和初期に料理屋でそのクラスの器を使うこと自体ありえないことでした。星ヶ岡茶寮では魯山人が先頭に立って名作を写し、自窯で料理を盛るにたる器を焼き続けたのでした。


古典的名作ではなくても料理人が興味を持ち、展覧会でもいいから間近に眺め、使う器をよりいいものにしていく努力があれば自然に目は養われるものです。まずは名作とはどういうものかを知っていることが大切です。


近頃の鑑定ブームのように高価であるからいい器・・・ではありません。バブル期の頃、高価な器を使っていることを売りにするような料理店もあったと聞きますが、本来器は料理人自身の審美眼にかなうかどうかが大切です。


器に関して、料理屋が避けなければいけないのは「突出しないこと」だと思っています。自慢げに高価な器を使うことは結構ですが、一枚だけが突出しているのは見苦しく思えます。また料理に見合わない器使いも辛い。前述の魯山人は「器は料理の着物である」と言ったと聞きます。自分の収入に見合わないエルメス一点豪華主義で持つこと、「男は靴から」とばかりにジョン・ロブを無理をして購入しながら服が見合わないこと、さらにはそれらのブランドを身に着けるように身奇麗にできないこと・・・などなど、高価な一点を使うにはまつわるすべてが見合ってこそ自分を引き立てるファッションになるはずです。器も同様です。



以前に湯河原「指月」さんにうかがった時のことでした。すべての料理、器が素晴らしいことに感激したこともちろんだったのですが、一番感銘を受けたのは「突出したものがなにひとつないこと」でした。すべてがおだやかに落ち着いて主張しすぎていないのです。永楽さんの器が出てきてもそれが突出していません。これは女将さんの美意識のなせる業です。板前さんにその感銘を伝えると「それを理解していただけるのが私達には一番嬉しいことです」と。


あのときの感動が自分の店でも現せるようになのが私の目標です。とはいっても「突出して高価」な器なんぞ店では買えませんので、「突出して安価」な器が混じってしまわないようにしなくては・・・ね。