名演その27〜チック・コリアその2

clementia2008-04-19



先日wowwowで録画したジョン・コルトレーンの1960年代の映像はファンにとっては目が釘付けになるような90分でした。1960年代にあのコルトレーン・グループの演奏がどれほどずば抜けたものであったか、コルトレーンのソロがどれほど神がかり的であったか、時代を知っている人間にはその素晴らしさが肌でわかります。あんな風にふけるサックス奏者は長い間現れなかったほど飛びぬけていたのです。


年寄りの音楽ファンの唯一のよりどころは時代を肌で知っているということです。音楽はそれ自体の素晴らしさはもちろんですが、過去の名演、歴史的名盤がどういう時代に現れたか、その時の空気感はどういうものであったのか、それを知っていることは若者にはない特権です。



お話は前回に続いてチック・コリア。1960年代後半の衝撃的な登場から今までずっと追いかけているピアニストです。


マイルス・グループの凄い新人は「ナウ・ヒー・シングス・ナウ・ヒ・ソブス」という決定的なピアノトリオ・アルバムの後、「サークル」という前衛的な演奏を繰り広げるグループを創りました。時代は60年代のフリー・ジャズの影響をまだ色濃く残していてチックが前衛に走っても不思議なことは全くありませんでした。ただ、同じ頃出されたソロピアノの方に個人的には強く惹かれるものがあったのです。すでにそのソロピアノ・ピアノアルバムに次に続くエポックメイキングな一作「リターン・トゥー・フォーエヴァー」の序章が隠されていました。


1972年、チック・コリアの発表した「リターン・トゥー・フォーエヴァー」は、私のような「ジャズ=フォービート」と思っていたファンには驚きでした。前作まで尖がった前衛ミュージックをつむぎだしていたチックが一気に、エレクトリック・ピアノを弾きポップな聴き易いリズムに彩られた音楽を奏でているのです。「エイトビート=邪悪」といっても信じてもらえないでしょうが、あの当時にロック(8ビート)に抱いていたイメージというのは「低俗 邪悪 ノリだけ 騒音」反対にジャズは「高尚 知的 エレガント」・・・なんて思っていたのはジャズファンだけの幻想で、傍から見ればジャズも充分に悪魔の音楽であったのでしょう。


まっ、ともかくマイルスのエレクトリック化、8ビート16ビート化にはひれ伏しても、チック・コリアのそれ、ハービー・ハンコックのそれ(”Head-Hanters”)は大衆受けするためのコマーシャリズムに思えて(というかそう言い張ったメディアを信じてしまって)長い間受け入れようとしませんでした。ピアノソロで同じ曲(”sometime ago”)をリリックに演奏しているのには心をときめかせているのに、別のアルバムでリスムが違うだけで許せなくなるというのはいかにも心の狭い所業に思えますが、時代の空気はそずんなだったのです。少しさかのぼってボブ・ディランが1960年代半ばにエレクトリック・ギターを持ったことを「フォークへの裏切り」と受け取ったファンと同じようなことなのかもしれません。若者が音楽に求めていたものの質が違っていたのでしょうね。


とはいえ、否定的に思いながらも実際に演奏されている音楽の素晴らしさは変ることはなく、次第にねじ伏せられるように「リターン・トゥー・フォーエヴァー」の魅力の虜になっていくのです。音楽、特にリズムへの垣根が私の心の中で取り払われていったのはこのアルバムのおかげです。


素晴らしいのはチックのあらゆる音楽がそうであるように、36年前のこのアルバムが今聞いても光り輝いて見えること、100%ナツメロではないのです。その後、たくさん生まれたフュージョンが色あせて見えるのとは対極をなしています。こういうのを歴史的な名盤というのでしょうね。