ミュシュランの権威


ミュシュラン・ガイドブックの存在を知ったのはいつの頃だったでしょうか?たぶん25年?30年位前だったような。。。覚えがあります。


その当時には日本には権威のあるガイドブックや点数付けをする批評というのは存在してませんでした。フランス中のレストランを網羅した星印はあの頃の私たちにはレストラン批評の権威そのものでありました。そういう頂を見るような思いはその後もずっと続いていて、山本益博さんの労作やその後のザガットの日本上陸を見ても、ミュシュランがより高いところでレストランを見つめているような気がしていたのです。


昨日のミュシュラン東京版の発表はこのサイトにおいでになるような食に関心のある方々には興味津々ではなかったでしょうか?8つの三ツ星は、行ったことのある店未訪の店がとり混ざっていましたが、どれもお得意様や信頼しているnet上の批評を見聞きして仕事ぶりを知っている飲食店でした。もちろん8軒の仕事の素晴らしさは存じ上げつつも、それも踏まえて思うことは、「えっ?このクラス、この仕事を安定的にしている店はほかにもるはず」という思いでした。むしろ「これでいいの?」という気持ちの方が大きかったのです。ミュシュランは細かい評価基準をずっと公にはしていませんから、どうしてこれらの店が三つの星で二つの星のや一つの星との違いはどこにあるかは全く明らかではありません。明らかにわかるのは、ミュシュランの権威といってもとっても主観的なものであったということです。もともと料理の好き嫌いは主観的ではあるのですが、日本にレストランガイドなどない以前からの権威を知ってしまっていたがために、その権威は絶対的なものであるかのように思い違いをしてしまっていたのです。評価基準はあらゆる部分から公平で主観を排したところに徹していると。しかしその評価は、あえて言えば世に溢れるnet上のグルメ評論と同様の偏った嗜好の星付けであったといっても過言ではないと思います。「ミュシュランはそういうけど私の判断は違う」でいいのです。あの星付けで一喜一憂していたフランスのレストランが気の毒でさえあります。考えてみれば、発祥の地フランスでは現代の東京のようにフレンチ、イタリアン、日本料理、中華、寿司、蕎麦がレベルの高いところでしのぎを削っているような状況はありません。主にフランス料理だけで評価基準をつくるのとは東京はわけが違うのです。さらに言えば日本人の格付け好き、素人の評論の百花繚乱ぶりをもしかするとミュシュランは甘く見ていたのではないでしょうか。私が純粋に食いしん坊の一人として言わせていただければ、ミュシュランの東京ガイドはレストランを選ぶときのたくさんの基準の一つでしかないということです。権威なんぞ全く感じませんし、星のあるなしが正しいともおもえません。評価の基準が明確でない星には意味がないのです。むしろ先日言った信頼するnet上の5人の素人衆のお話のほうに耳を傾けたいと思うのです。


皆さんはどんな風に思われましたか?