審美眼


インターネットの普及と検索機能の充実で、「知識をもっている」こと自体は重要ではなくなりつつあります。知らないことは検索すれば、あっという間に知識として補填されます(真偽のほどはさておき) 実際、昨日書いた南直哉老師のことなど、昔であればどんな人でどんな著作があるかを調べようと思ったら一仕事でありました。しかし、未だに私たちロートルは世間の常識や歴史、社会事情を知らない若者を馬鹿にするような傾向があります。そんな知識だけを頭に入れているから偉い人である・・・と思われる時代はすでに過去のものなのかもしれませんね。




先日青山二郎の偉大さが理解できないと書きました。TV番組「なんでも鑑定団」のおかげで庶民の骨董に対する興味は俄然深まったと思うのですが、反面今の世相も手伝って、骨董を価格的な価値だけで判断するような風潮は間違いなく出来上がってしまったように思います。「名品を持っている=お金持ち」という価値判断しか持たなくなってしまいました。小林秀雄をして「我々は秀才だが青山二郎は天才だ」と言わしめた青山二郎の凄さは「美を見極める能力」であったそうです。その時代であれば、骨董趣味はお金を持っているとことイコールであるよりは、審美眼の世界、何が美しいかを見出す楽しみにより近かったのでしょう。古くをたどれば、利休の井戸茶碗、新しくは柳宗悦民芸運動も同様なのでしょうか。骨董=高価を云々することは大きな意味を持たないことだったのでしょう。





さて、お話は食の世界です。インターネットの普及と日本の流通革命は、世界のあらゆる食材の知識を広め入手を可能にしてきました。食材もお酒もこれまで知りえなかった知識がネット上で当たり前のように行き来しています。これも一昔前でしたら、食の世界でも知らない知識を披露している方を尊敬したり憧れの目で見ることもありましたが、今では検索一発・・・で済んでしまう知識もたくさんあります。つまり、「知っている」「食べたことがある」くらいは特別な人々の特別な行為ともいえなくなってきているのだと思うのです。一方雑誌やTVメディアではnetに負けじと有象無象の食情報を垂れ流しています。こういう情報発信を飯の種にしている方々は、いかに新しい何かを知っているかが命なわけで次々とお披露目し最先端であるボク(ワタシ)でなければなりません。田舎町に住む私にすれば、東京しか日本でないとも思えるようなこういう東京偏重の情報、しかも使い捨てな情報にはもうヘキヘキしています。


私なんぞ30年もこの世界でご飯を食べていると、食事情の変遷を肌で感じてきています。歳をとるとずうずうしくなって、ご立派を言っている事情通も食通も皆さんそれなりに経験を積んでいらっしゃるとはいえ、「食を三代かけて培った」わけでも「生まれたときから食卓にラフィットが並んでいた」わけでもないということを実感で知っています。今もてはやされる食の知識なんぞ、つい最近とってつけたようなものばかりなのです。ネットでも雑誌TVメディアでも横行するのはそんな情報をもっている人の情報自慢ばかりです。ご立派はまさにとってつけた情報のご立派なのです。最初に申し上げたように、情報だけを有難がる時代ではなくなりつつある今、私が尊敬するのは自分が食べ飲んだものの美味しさを自身の言葉で語れる方で、情報や経験だけをもったいぶって語る方ではありません。「ラフィットの1945年を飲んだことがある」とか「DRCを○十本経験している」「○○家のシャンパン造りの系譜は・・・」の言葉に恐れをなす必要などありません。たった一つのヴィンテージの経験しかないワインでも、青山二郎が美の価値を自らの感性で評価したように、自身の言葉で称えることが出来る人こそが尊敬に値するべきなのです。出来うることならば、そういう審美眼のある方に評価していただけるような店になってみたいものです。