興奮の新書

clementia2007-04-12



それほど昔のことではないと思います、新書と呼ばれる本がつまらなくなってしまったのは。題名が刺激的だけで紙面を浪費しているだけの陳腐な「啓蒙まがい本」 サラリーマンの本棚に居並ぶ経営ハウトゥー本や人事掌握ハウトゥー本と変わらない「お題目負け本」  私が長いこと新書本にイメージしていた「ちょっと背伸びして未知の分野へ知的な冒険をしてみる」ための手引き本とは程遠い新書本が本屋にはあふれています。



親しい友人が強く奨めてくれた”西洋音楽史 「クラシックの黄昏」”岡田暁生 は、本当に久しぶりに知的興奮を味あわせてくれる新書本でありました。開くページ開くページに「目から鱗」がポロポロ落ち、鉛筆で囲むんでチェックする文章がほとんどすべてのページに現れます。


クラシック音楽マンネン初心者の私には、幼い頃から「クラシック=普遍・不滅・偉大・芸術」のイメージがあって、太古の昔からの西洋のバックグラウンドの元に脈々と受け継がれた芸術をバックボーンにして、高くそびえる教会の尖塔のように気高い永遠なるものと信じていました。クラシック音楽の面白くない歴史に興味をそそられない方々も同じような印象をもっているのではないでしょうか。


ところが、本書ではまえがき冒頭から「私たちが普段慣れ親しんでいるクラシックは、十八世紀(バロック後期)から二十世紀初頭までのたかだか二百年間の音楽にすぎない。西洋音楽の歴史を川の流れに喩えるなら、クラシック音楽はせいぜいその河口付近にすぎない」と喝破します。いや喝破というほどのことではないのですが、「そういやぁそうだ」とはたと手を打ちます。


川の流れに喩えられた西洋音楽の歴史を同時代の政治、経済、社会の流れの変化とからませながら紐解いてくれる文章は、凝り固まった頭を揉み解してくれるようにすんなり頭に入り、すっかり岡田信者になっている自分に気づくのです。



私が永遠と信じていたクラシック音楽が、この本のおかげで世界の音楽の中の一つの流れのエポックとしてとらえられ、今時のジャズやポップスと比べて「永遠V.S.流行モノ」の枠組みでとらえてしまう愚をはっきり認識することができました。ジャズだって私が聴く分野だけでも70年の歴史があり、後世に受け継がれる芸術性を持つ同等の音楽であるはずですし、ビートルズだって同様にこれだけ長く受け継がれ、「クラシック」という名前で100年後にも語られているかもしれないということを分析的に理解することが出来たのです。


この本、勉強になる・・・以前に岡田氏の音楽への深い愛情に触れるための本でもあります。ちょっとでもクラシック音楽に興味のある方全員に読んでいただきたい本。書店で見かけただけなら絶対購入しないはずのタイトルなのに、中身の凝縮度は強烈です。