1977年の穐吉敏子さん

clementia2006-04-12



穐吉敏子さんの敏子〜タバキンビックバンドのニューポート・ジャズフェスティバルでのライブアルバムがリリースされました。


1974年に「孤軍」を発表して新しいビックバンドの形を提示し、創作意欲にあふれていた時期です。メンバーもご主人のルー・タバキンのパワーが全開、ボビー・シューのトランペット、ゲイリー・フォスターのアルト、鉄壁のトロンボーンセクションが確立して世界最強のビックバンドを穐吉さんが操っていました。ライブのパワフルでドライブする演奏の迫力が素晴らしく、中でも
「ミナマタ」(平和な村~繁栄とその結果~終章)はこの楽曲が発表された当時よりも心に響きます。これほど日本の伝統音楽とジャズが絶妙に融合した例は、山本邦山「銀界」以外には知りません。「村あり その名をミナマタという」という幼女の歌声から、スウィンギーで躍動するフォービートに火の出るようなタバキン〜フォスターのソロ、次第に不協和音が現れ始め、そのハーモニーに能の謡曲がかぶってくる・・・その構成力は楽曲としてのレベルも超一級であることを示しています。


実は同じ1977年の春に、敏子〜タバキンビックバンドのリハーサルをL.A.のstudioでたっぷり見学する機会がありました。もちろん練習後に各ミュージシャンともおしゃべりができて夢のようなひと時を過ごしました。何しろ目の前2mの処で超一流のスタジオ・ミュージシャン十数人が演奏しているのです。サックス陣が全員がフルートに持ち替えて(確か”ファースト・ナイト”)演奏したときの物凄さ。ルー・タバキンのフルートは信じられないほどの分厚い音で全員をリードし、敏子さんは要所要所で指示を出し、一流ミュージシャンを手足のように操るのです。


そのときの敏子バンドのリード・トランペッターにして花形ソリストであったボビー・シューが、数日後の私たちの出演したジァズ・フェスティバルにゲスト出演していて、舞台袖で私たちの演奏に聴き入ってくれていました。「あんとき見学していたニッポンの若いやつらか・・・」と。演奏後のこれまでに日本では経験したことのない怒涛のようなアプローズ以上に、舞台袖で大きな拍手で迎えてくれたボービー・シューの笑顔が忘れられません。勝手な思い込みですが「おまえら案外やるじゃん」と言っているかのようなボビーのお出迎えは、3000人のスタンディングオベーション以上の高い評価に感じられたのでした。ひたすら美しく形作られる思い出話ではあるのですが、1977年の敏子〜タバキンバンドというと忘れることができない思い出に重なります。