知ってしまった不幸


先日BSで若手、といっても30代後半か?・・・の落語家が演じていた「唐茄子屋政談」 いつぞやお話したように私の落語スタンダードは古今亭志ん朝さんにありますので(というか、熱心に聞き込んでいるのは志ん朝さんしかないとう素人ですので)志ん朝さんが演じた題目はつい比べてしまいます。


芸事も料理も比べるのはナンセンス。よくある落語通の「風格という点で、やはり文楽にはまだ及ばなかったといわざるを得ないが」みたいな批評。「私、文楽志ん生も知ってます」という訳知りの「○○にくらべればまだまだ」が大嫌いと思っていたにもかかわらず、ふっと気が付くと「志ん朝さんに比べるとまだまだ」と心の中で思っている自分がいます。あーーー、ヤダヤダ。


志ん生文楽をリアルタイムで聞いて薀蓄をたれる事ができる落語ファンはすでに60代以上になった今、志ん生文楽の後、「語る」ための名人は小さんでも圓生でもなくてきっと志ん朝になるんでしょうねぇ。絶対に通ぶって語らないぞ、志ん朝さん。といっても、凄さを知るのが遅すぎて語るには程遠いわけなんですが。


それでも志ん朝さんを知ってしまったために感じる不幸、物足りなさは間違いなくあります。