お節料理昔話

いよいよ年の瀬となりました。そろそろ仕事納めの方も多いでしょうが、私たち日本料理店はお節料理の仕事が最後に残っています。クリスマス後くらいから徐々に仕込みが始まるのですが、29-31日まではほぼお節仕事だけに集中するようになります。


仕込みをしながら若い者にお節料理の昔話をしていました。祖父から聞くところでは、私ン処はこの地の料理店で初めてお節料理を売り出すようになった店であるそうです。戦争前、お節料理は各家庭で作るのが当たり前でしたから、料理店のお節を注文するというのはそれなりのお家であったのでしょう。


今では、お節料理は店で用意した特製の折箱に、決められた内容の料理を盛り込むのが普通です。昔私が子供の頃には、年末になるとお得意様からお家の重箱が届きました。風呂敷に包まれた重箱のほとんどは輪島塗で、重箱ごとに住所氏名とともに、「甘いものを多く」とか「鳥のつくねを多めに」などとそれぞれの注文が値札に書かれてついていました。各家庭の重箱にそれぞれの料理を詰めるのが当たり前であったのです。小さな部屋が重箱でいっぱいになると、子供心にも今年も終わりに近づいてきたという思いが強くなってきたものです。大晦日になると、調理場勢と座敷の盛り込み勢に別れて、それぞれの重箱に注文にそって料理が盛り込まれていきました。盛り付けが終わると、子供たちがソロバンを片手に壁に張られた原価表を見て「伊達巻が5貫で○○円」「二色玉子が3貫でで○○円」と計算をしていきお重箱の値段が決まります。今考えると、料理店にお重箱を持ち込まれるような方は、「○○○円で」などと値段を決めずお任せをいただいていたのかもしれません。お互いの信頼関係は値段の点でも安心感があったのでしょうね。一つ一つにそんな手間をかけていたのですから、徹夜は当然。除夜の鐘を聞く頃に仕事を終えるのが普通であったのです。


そういえば、魚屋乾物屋が軒を連ねるこの街の大晦日の賑わいは大変なものでした。なにしろ、通りの端から向こう側が見えないほど人で溢れ返っていたのです。丁度アメ横の風景のようでした。人々は魚屋で新巻を買い、乾物屋で数の子や鰹節を買い、正月に備えたのです。ところが今では大晦日にはほとんどの店がほとんど店じまい状態、準備は30日までに済ませて、31日は自宅でのんびりなのでしょうか、通りは閑散としてます。大晦日らしさは20年前とは全く違います。これも時代の変化なのでしょうね。