トルシエ・ジャパン


ワールドカップ・サッカーを初めてみたのが1986年のメキシコ大会。


国中を熱くするスポーツ大会はオリンピックではなくてサッカーなのだと知ったのもこのときです。昨年日本もやっと国民全体でそれを実感したと言えます。


2002年日韓共催ワールドカップが終わって、各メディアはさまざまな決算をしてきました。


最近読んだ沢木耕太郎「シネマと書店とスタジアム」の短い文章と、山本昌邦山本昌邦備忘録」でやっとトルシエ・ジャパンの実態を知った気がしました。


大体私のように古い頭を持った人間は、「先生」「指導者」と呼ばれる人種を無条件で尊敬してしまうところがあって、人を束ねる人間は即人格者であるべきだと思ってしまいます。


日本ではこれまで、人格的に尊敬される人間が上に立ち、大勢を掌握し事を成してきました。それはスポーツにおいても同様です。


ところが、フィリップ・トルシエのなんたることか。


トルシエにもっとも近かった日本人コーチ山本昌邦さんは「備忘録」ではあくまで冷静に日本代表を眺め、ワールドカップまでに道のりを的確に分析しているにもかかわらず、その内容多くは選手のことよりもいかにトルシエに手こずらされ、悩まされたかに費やされています。


ここまで人格的に未熟な人間に、よく日本代表を任せていたものだとと唖然とします。


トルシエがいかなる人物であっても、選手たちのワールドカップ出場への情熱はかわりません。


選手たちはトルシエに選ばれなくては代表にはなれず、トルシエのサッカーを忠実に実践しなければ試合に出してもらえませんでした。


フラットスリーに代表されるトルシエのサッカーが、現在の日本にとって正しかったかどうかの判断はは専門家に任せるとして、結果として決勝進出という偉業を成し遂げたのは、選手たちのワールドカップのピッチにたつのだという熱い思いによってなし得たものだと感じます。


結果がすべてのスポーツの世界ではトルシエという選択は正しかったと評価されるのでしょうが、トルシエという人、個人的には絶対近づきたくない人間です。


2002年のワールドカップ、日本はあのトルシエでも我慢してよくやったよな・・・・っていうのがぶっちゃけた私の決算。


トルシエが選手をグラウンドでも公にも誹謗したとき、「これは選手を奮い立たせるための深慮遠謀があるに違いない」と思った私はぜんぜん勘違いしていたようです。ただの了見の狭いやつ。


同じことは今のアメリカにも、「ブッシュの外から見える実に単純な(ある意味浅薄な)思考は、緻密な戦略の元にアメリカ人にわかりやすくするため」・・・・などというのも、実際に単純思考のブッシュがいるだけで周りが肉付けしているだけなのかも?


あれでいいの?超大国アメリカの指導者が?


やっぱり人格的にも尊敬できそうもないし。