リハーサルでわかる凄み


素人にはなかなか理解できないプロの凄みは、必ずしも本番ではなくリハーサルで目の当たりにすることがあります。


たとえば、グレン・グールドの練習風景の映像は私には衝撃的でした。


ガウンを着たグールドが一心不乱にピアノに向かい、ふと手を止めて窓から外を眺め、再びピアノに向かう日常の練習に見えるその姿で、グールドの練習というのがテクニックを高めたり、できない場所をさらうためにあるのではなくて、頭の中に出来上がっている楽曲のあるべき姿をいかにして表に現すか・・・ということのためだけにあることが理解できて呆然とします。表現者としてのレベルが圧倒的に違うことがこの練習風景の一瞬で理解できるのです。


さらに卑近な例でいえば、パット・メセニーグループの練習風景。以前のドラマーであったポール・ルワンティコが指ならしのためにリムショットを一発、フォービートのレガートを一小節だけ。たった5秒ほどの音で聴く人が聴けばドラマーとしての格の違いが一瞬でわかります。「ウワッ!うまっ!」ライブや録音のグループの中の音よりも凄みがストレートに伝わるのです。


映画で観たマイケル・ジャクソンはまさにそれ。リハーサルで見る者を圧倒しています。


これまでずっと完璧主義者マイケルの映像は、完成されたステージやPVだけが我々の目に触れていただけで、リハーサル映像が流れることはなかったように思います。それだけに表現者マイケル・ジャクソンの他を圧倒する姿の数々に皆が改めて仰天するのです。


「リハの50%しか出していない踊りでこれかよぉ!」「リハでここまで歌が完成しているからこそのあの本番のレベルかぁ」「ダンサーもバック・ミュージシャンも90%で己を出しているのにマイケルはこのくらいでもカリスマ性がある」


マイケル自身の音楽的な素養の高さだけでなく、コンサート全体を見渡すプロデューサーとしての力の高さ、スタッフに対する気遣い。あらゆる場面で惹きつけられます。


若い女性ギタリスト オリアンティ・パナガリスがソロを取る場面。マイケルは「ここはもっと高い音で」と彼女をリードしつつ、「さあ、ここは君の見せ所だ」「僕がいっしょにいるから」と自然に語りかけます。こんな風に言われたら私なら泣いちゃいます。


マイケルはこんな素敵な人格者でこんなに素晴らしいステージを作る能力をまだまだ持っていたのです。メディアによって作られた奇人 変人 危ないヤツの片鱗はみじんもありません。西寺郷太さん、ライムスター宇多丸さんの啓蒙的発言でマイケルへの偏見が私の頭の中から取り払われつつあった矢先のマイケルの死。マイケルの不幸な死がなくて、この映画をみせられていたら間違いなく私はマイケル・ジャクソンの信奉者として彼を追いかけ始めていたはずです。


マイケル・ジャクソンという稀有なアーティストが正統な音楽活動を続けていくためには、音楽以外のすべての雑音と雑用をシャットアウトして、マイケルのお金や名声を目当てに群がる輩を排除できるチームを作り上げなければいけなかったんでしょうね。あまりにも残念で、そのことを死のあとやっと理解した私のボンクラぶりが腹立たしい。